「元気?」
 彼女の声は今日も変わらない。それを確かめると、僕は穏やかな気持ちになる。
「うん、元気」
「今日はどんな事をしていたの?」
「ずっと本を読んでた。疲れた・・・」
 僕はあくびをかみ殺そうとする雰囲気を、電話で伝えようとした。
「そう、面白い本だったんだね」
 彼女は笑って、それに応えた。優しい笑い方だった。
「今日は太宰治と河上肇と中島敦を読んだ。最近、そういう古いやつにハマってる」
「すごいなあ・・・もう、立派な文学少年だね」
「母さんはもっと勉強しろって、うるさいんだ」
「読書くらい、いいんじゃないかな?君、成績は良かったじゃない」
 本当は、あまり勉強しなくなってから成績は落ち始めていた。彼女には言わないでおきたかった。
「先輩は大丈夫?留年なんかしないでよね」
「失礼ね、これでも私、真面目な方よ」
「それは、知っているけど。大学に入ったら、遊んでるのが普通じゃない?」
「アルバイトで、学費出してるからね。授業受けないともったいないでしょう」
 立派だ。模範的な学生と言ったっていい。先輩は、いつもそうだった。勉強でも部活動でも何でも頑張ってしまう先輩の背中を見ながら、僕の方はといえば、そんな彼女にあこがれるばっかりだ。
 先輩らしいね、とだけ言って、適当に話題を変えたら、彼女がくすっと笑った気配がした。自分の考えを見透かされた気がして、僕は恥ずかしくなって黙ってしまった。










「元気?」
「うん、元気だよ」
 彼女は電話がつながるといきなり「元気?」と訊く。
 少し前まで苗字くらいは名乗っていたけれど、だんだん面倒くさくなったのか、こっちがケータイなのをいいことに修飾語を省略するようになった。
 おかげで僕は、たとえ公衆電話からかけてこようとも相手が誰だかすぐ分かるのだ。
「今日は学校、行ったよ」
「そうか!よかったね」
 先輩の声が明るくなった。最近学校の話をしていなかったから、心配してくれていたのだろう。
 先輩は、僕の体のことを直接訊かない。
「久しぶりに行ったら、皆に気を使われて、困った」
「いいじゃない、放っておかれるより全然いいよ」
「そうかも知れないけど。何かやるたびに、いちいち手伝おうか、なんて言われたら、こっちだって気を使うし、疲れるよ」
「贅沢ね。私なんか、最近誰もかまってくれないのになあ」
 そう言って、先輩はわざとらしく溜息をついてみせた。でも彼女は友達の多い人だったから、そんなはずはないんじゃないかな、と思った。
「そう言えば、一人だけ気を使わない人がいたよ」
「だあれ?」
「英語の、中西先生」
「―――まだやってるんだ、あの小テスト」
 受話器から、明るい笑い声が伝わってきた。










 カメラなんて持ってもいないのに、高校で写真部に入った。
 持病のせいで、運動部には入れなかった。どうせ部活動は好きじゃないし、何か一つは参加していないといけなかったので、シャッターボタンを押すだけなんだから一番楽そうだ、と思ったのだ。
 でも、やってみると意外に面白かった。備品のカメラでしばらく運動部の練習風景なんかを撮っていたが、そのうち自分のものが欲しくなって、中古で五万のペンタックスを購入した。写真関係の本や雑誌が棚に並び出し、レンズやストロボなどの部品にも凝るようになった。
 被写体を求めて町に繰り出すようになると、先輩が色々な所へ連れて行ってくれた。彼女自身がそれまでにあちこちに出向いてたくさんの写真を撮っていたので、彼女の知識は豊富だった。もともと少ない部員の中で、熱心に活動していたのは僕と先輩だけだったから、僕の写真の知識も技術も、大抵が先輩の受け売りなのだ。
 僕は先輩を慕ったし、彼女も僕を、可愛い後輩と思ってくれていたようだ。
 彼女が卒業するまで、そんなふうに続いた。


 僕は病欠が多かった。幼稚園の頃からそうだったから、自分でも特に気にしていないのだが、何も知らない先輩は最初はひどく戸惑ったようだ。学校を休んだのは、自分が昨日遠くまで連れ出したせいではないかと思って、わざわざ見舞いに来て謝ろうとする、なんてことがよくあった。
 何度違うと言っても聞かないので、結局先輩は僕の家に立ち入り禁止、ということにしてしまった。そうすると、今度は電話がかかってきた。
 責任を感じるだけで、そこまではしないだろう。後で考えたことだが、どうも彼女は先輩として僕の世話を焼きたかったのではないかと思う。
 彼女の「元気?」は、その時からだ。


 電話をかけると、四回鳴ってつながった。
 こっちが口を開くよりも早く、
「元気?」
 今日も、やっぱり続いている。










 夜八時から九時の間、大抵一度に三十分。
 いつの間にかできていた、僕達の不文律だ。
「元気?」
「うん。三日振り」
 うとうとしていた所だったので、声が変なふうに裏返った。先輩はちょっと戸惑ったようだった。
「どうかした?」
「いや、何でもないよ。少し眠いだけ」
「そうだったの、ごめんね」
「いいんだよ。話そう」
 電話を切られそうな雰囲気だったので、慌ててそう言った。疲れていても、話がしたかった。
「ならいいけど。今日は学校に行けた?」
 先輩の声がいつもの調子に戻る。僕は痺れた頭を振るって、会話を繋いだ。
「ううん、行ってない」
「あら、じゃあ読書デーだったのね」
「そうじゃないけど。今日は病院」
「・・・病院?調子悪いの?」
 ああ、言わなくていいことを言った。余計な心配をさせるだけなのに。
「別にそういうわけじゃないよ、いつもの検査をやっただけ。先輩はいちいち気にするね」
「それはだって、私が電話して負担かけちゃったりしたら、申し訳ないですからね。先輩面させてもらってるんだから、当然よ」
「いいんだってば。そんなことより、僕は先輩が電話くれる方が嬉しいんだからさ」
「あ、その台詞、なんだか口説き文句みたい。あーあ、昔は純な子だったのになあ」
「やめてよ、そういうからかい方」
「あははっ・・・」
 病院で、検査の後に今までと違う薬を渡された。だんだん薬が効きにくくなっているような気がしていたので、正直な所、ありがたかった。
 副作用で毛が抜けるかもしれない、というのが心配だった。









「元気?」
 今日は学校に行ったから疲れたけど、まだ元気だ。

「元気?」
 そう言う先輩の方が疲れた声だ。そっくり訊き返してやった。

「元気?」
 寝ていたらだいぶ調子がよくなったから、心配いらない。

「元気?」
 大丈夫、今日も僕は元気だ。










 電話が鳴り出した。
 今日こそ、出ようと思った。電話をつかんで、通話ボタンを押そうとしたら、話したいことが一気に吹き出してきて、何を話したらいいか分からなくなった。
 いいんだ、いつも通りでいいんだ。
 ボタンを押すと、息を飲む気配が伝わってきた。今日も出ないと思ったんだろう。
 一瞬、気まずい沈黙が訪れた。彼女の言葉を、僕はいつまでも待つつもりだった。
「元気だった?」
 一週間振りに聞いた声は弱々しくて、不安げに震えていた。そんな先輩の声を聞くのは、励まされたり叱られたりするよりも、よっぽど胸にこたえた。これだけ彼女を苦しませたのは、自分なのだ。心底、自分の非を恥じた。
「大丈夫だから。頑張るから」
 感謝や謝罪や、色々な気持ちを込めて、僕は言った。
「心配かけてごめん。もう一度、頑張ってみるよ。このまま、親にも先輩にも迷惑かけっ放しなんて、情けないから。電話ずっと取らなくて、本当にごめん」
 先輩はしばらくじっと黙ってから、うん、と小さく呟いた。その声は少しだけ明るさを取り戻していて、僕はそれが本当に嬉しかった。
 しっかりしよう。一度の留年くらい、なんだ。
「勉強ができなくなるわけじゃないんだし、それに、高校を卒業しなくたって、大学には入れるんだから。こんなことでふさぎ込むなんて、どうかしてた」
「うん」
「勉強するよ、自分で。先輩と同じ大学に入る」
 それは、夢だ。きっと無理だと分かっていながら、僕は本心でそう言った。
 僕は、ひたすら前向きになろうとした。そうするしかなかった。もし僕が出席日数の不足なんかじゃなく、成績の悪さで落ちていたなら、僕も彼女もこんなに落ち込まなかったと思う。
「うん・・・そうだね。そうなったらいいね」
「そこ、難しいからなあ。簡単にはいかないだろうけど、ちゃんと計画立ててやる。浪人なんてしてられないもんな」
「私、勉強教えるよ、電話でもメールでも、何でも」
「本当?すごく助かるよ」
「君、数学が苦手なんだっけ。私理系だから、手伝えると思う」
 それは慰めの言葉だと言われれば、その通りかも知れない。それでも、先輩が精一杯伝えてくれた言葉だから、それで僕には十分だった。
 それから先輩は、受験に必要な科目についてひとつひとつ、勉強のアドバイスをしてくれた。丁寧で、とても時間がかかったけれど、僕はじっと聞いていた。こうして二人で、いつまでも話していられたらいいと思いながら、聞いていた。










 窓の外は真っ暗だ。僕はがらがらに空いた普通列車の座席に座って、頭上の広告をぼんやり眺めていた。
 先輩の大学は思ったよりも広かった。一日でまわりきるつもりだったのに、結局五つの学部を流し見ただけで終わってしまった。 それでも半分近くの学部を巡って、大体の雰囲気は知ることができた。もし叶うなら、やっぱりここに来たいと思った。
 僕は『週刊ポスト』が外務次官の脱税容疑をすっぱ抜いたという見出しを見つめながら、今日一日の情けない自分を思い返した。 中庭でも購買でも、気がつけば僕は、そこに先輩の姿がないかと辺りを見回していた。沢山のノートを小脇に抱えて次の授業へ向かう彼女と、どこかでばったり出会ったりしないかと、びくびくしながら、そのくせかすかに期待してもいた。
 全く、馬鹿な話だ。会いたかったなら、一言電話すれば良かった。先輩は喜んでどこへだって案内してくれただろう。彼女がまだ高校生の時、あの眩しい時代に、僕に沢山のことを教えてくれたように。
 僕には、それができなかった。
 自分から会いに行くという気恥ずかしさや、一年足踏みしたことに対する後ろめたさは、確かにあったけれど、それだけならどうってことはなかった。僕はただ、彼女に会うのが怖かったのだ。
 電車はカーブのたびに耳障りに軋みながら、闇の中を突っ走っていく。車両の隅で居眠りしていたサラリーマンが、わっと叫んで起き上がり、まわりを見回してからまた目を閉じた。車内は空いているのになぜシルバーシートで眠るのだろう、と思う。僕は疲れ、ひどい気分だった。
 もう何も考えたくない。僕は胸にのしかかったままの不快感を無視して、無理やり目を閉じた。電車のかすかな振動が思考を溶かしてくれるのを、頭を垂れて、じっと待つ。
 不意に、電話が鳴った。絶妙なタイミングで降りかかった理不尽な暴力に、僕は顔をしかめた。サラリーマンがびくっと反応して、自分の電話でないことを確認して姿勢を戻した。車内では携帯電話の電源を・・・と、アナウンスが告げていた。
 しばらく、ためらった。電話を取れば、きっといつものやりとりになるだろう。彼女は僕が今まで何をしていて、どんなことを考えていたのかなんて、何にも知らないで、明るい声をかけるだろう。僕はなんて答えればいいのだろうか。
 結局、無視するわけにもいかなくて、ためらいがちに通話ボタンを押した。
「元気?」
 実はもう疲れて、死にそうで・・・
 彼女は太陽だ。いつも元気で、生き生きと輝いていて、そんな彼女をいつまでも見ていたいと、僕は思う。それなのに本当に小さなことで、太陽は僕の心配をして、曇ってしまうのだ。なんだって彼女は、こんな奴のことをいちいち気にかけるのだろう。
 本当のことを伝えるのは、時にはとても難しいのだと、僕は思い知った。
「ああ、元気だよ」
 僕はちいさな嘘をついた。










 冬になっていた。電話のやり取りは続いていた。
「元気?」
 また、変わらない声で彼女が言う。
「いつも、そればっかりだね、先輩は」
 先輩は少し笑った。受話器の向こうでかすかに流れている曲はなんだろうな、と思いながら、僕は言った。
「定期試験はどうだったの」
「なんとなかりそう。そっちは?」
 受けていない。
「うん、まあまあ」
「そう」
 それっきり、二人とも黙った。
 とても静かな夜だった。時計の針は八時をまわっていた。僕は立ち上がり、窓のそばへ行った。
「雪が降っているよ」
「本当」
 窓を開けた。小振りではあったが、今年の初雪だ。
 風はとても冷たくて、手のひらに落ちた雪は、なかなか溶けなかった。
「明日」
 僕はそっと口を開いた。
「明日から、いなくなるんだ」
「え?」
「予備校に通うんだ。もう、入試も近いから。もっと集中して勉強したいから。これから毎日、学校が終わってから、ずっと。だから」
 先輩は、何も言わない。
「だから、電話はできなくなる」
 びっくりするほど、簡単に言えた。何度も頭の中で練習したせいだろうか。僕はこんなにも嘘が上手かったのだろうか。
 雪がそよ風に流されて、少し吹き込んできたけど、僕は窓を閉めなかった。このまま、家中に降り積もればいいと思った。
「そう」
 先輩は言った。
「そうか、寂しくなるね」
 それは、本当に寂しそうではあったけれど、それでもいつもの先輩の声だった。僕は少し、安心した。
「仕方ないよ、僕、頭悪いから」
「そんなことないよ」
「そうか」
「三月まで、だね」
「うん、三月までだね」
 それまでにはきっと退院できないのを、僕は知っていた。
 だから、今日までだ。
「きっと忙しくて、あっという間だね」
「うん、できれば早く終わらせたい」
 先輩は何も知らない。僕は何も言わない。
「待ってるよ。絶対、大丈夫」
「うん」
「来年になったら、また、一緒に写真を撮ろう」
「うん、そうだね」
 もし、と僕は思った。もし今、何もかも話したら、先輩はきっと受け入れてくれる。今までの弱音も嘘も帳消しにして、みじめで情けない僕を優しく笑って支えてくれる。分かっていた。彼女はそういう人だ。僕は本当に、彼女が好きだった。
「勉強、つらいだろうけど、頑張って」
 先輩は言った。
「それじゃあ・・・またね」
「おやすみ。元気で」
「おやすみ。君も」
 先輩は、言った。
「元気で」
 電話が切れた。
 僕は立ち上がり、多分もう、二度と使わない携帯電話を、机の引き出しに閉じ込めた。少し強くなってきた雪が、開けたままの窓から静かに入り込んできた。
 僕は少し泣いた。









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